ハル次郎は SEKAI NO OWARI の曲の魅力の1つに「ストーリーの結末を言わない」ところがあると思います。 本記事ではそう思った理由を述べていきます。
ストーリーの結末を言わない曲
セカオワの歌詞の多くはストーリーを語っています。その中でも「結末を言わない」曲がいくつかあります。ここでは例として2曲挙げます。
マーメイドラプソディー
主人公は水族館の人魚。自分が恋した男性が会いにきてくれるので、彼女はガラスに囲まれた「不自由」な場所でもそれを気に入っています。しかし人魚の「自由」を守ろう考える人々によって水槽から海へと放されてしまいます。彼女は海の広さに圧倒されますが男性を忘れることができません。
マーメイドラプソディー
煌めく自由なダンスホール
次は私が会いに行くわ
もう待っているだけじゃないから
今宵純白のダンスを踊るから
SEKAI NO OWARI「マーメイドラプソディー」(作詞:Saori)
歌詞を見て分かる通り、彼女は恋する男性のもとに行くことを決意します。しかしこれ以降、実際会えたのかどうかまでは歌われません。
Error
主人公は軍事用のロボット。彼はひとりで戦う美しい女性を見て恋に落ちます。それまで人を殺してきた彼が優しい心を持ち、彼女との楽しい時間を重ねます。しかし「優しさを知った=弱くなった」とロボットは悩みます。それを彼女は「弱さを知るということは強いということなの」と包み込みます。
夜空に容赦なく降る銃弾
弾が当たった事なんかなかったのに
腕の中にいる君を見て分かったんだ
僕は君の家族になりたかったんだ
SEKAI NO OWARI「Error」(作詞:Fukase)
戦闘の中で被弾したロボット。腕の中には愛する彼女。この曲の中ではこれ以降、彼が亡くなったかどうかまでは歌われません。
結末が語られないと「曲のメッセージ」が光る
ではなぜストーリーの結末が歌われないのか?それは「結末」を提示してしまうと曲の「メッセージ」が弱まるからではないかとハル次郎は考えました。
もしマーメイドラプソディーで結末が示されてしまうと、曲のメッセージが弱くなってしまいます。「ふたりがまた会えてよかった~」「会えなかったの残念」という感情を聞き手に与えてしまったら、この曲の《自由・不自由とは何か?》という問いかけは二の次にされてしまうでしょう。
もし Error で結末が示され「ロボットが助かってよかった~」「ロボットが死んで悲しい…」という感情を聞き手に与えたら、この曲の《本当の強さとは弱さを知ること》というメッセージは後回しにされてしまいます。
人間は過程よりも結果を重視してしまう生き物です。なのでセカオワは結果を歌わないことで、その曲の過程(=曲のメッセージ)に注目させようとしているのだと考えられます。
結末が明かされず聞き手はモヤモヤするからこそ、そのストーリーに目を向けそこから何かを学ぼうとするのかもしれません。
そのような曲の作り方こそがセカオワの魅力の1つだと思います。
またそのモヤモヤするという感情こそが、セカオワによる「物事に答えはない」というメッセージの表れなのかもしれないですね。